【from Editor】「慣用」とどう向き合うか(産経新聞)

 新聞づくりで悩ましいことがある。「慣用的表現」とどう向き合うか。原稿、見出し、写真…。何げなく、ずっと使っている言い回し、今の時代では「もう、古いんじゃないかな」と思わせるもの、そんな表現や描写、写真の構図が依然として残っているのだ。

 古き良きものを完全否定しないからこその悩みなのだが、新鮮なニュースに飛び付かなければならない一方で、これだけはなぜか変わらない。でも、それでいいのか、という思いもまたある。

 この時期、よく登場する「日の丸飛行隊」、マラソンなどの前日の記事で見かける「(きょう)号砲」の文字、どういうわけかお決まりの「メダルかじり」の写真などなど。いずれも、以前から、漠然と違和感を持っていた。

 これしかないという信念の下に使っているか、といえば、正直、そうとは言えない。見出しを担当する整理部の人間に聞くと、「(見出しは)短い言葉で言い表さなければならないから、『宿命』みたいなもの」と、ついつい使ってしまうのだという。

 「日の丸飛行隊」と呼ばれるようになったのは、札幌冬季五輪(昭和47年)から。ジャンプの70メートル級(現在のノーマルヒル)でメダルを独占した38年前の大偉業以来、ずっとこう表現されている。「日の丸」はともかく、「飛行隊」という響きはどうも古い。それなら、「日本ジャンプ陣」でどうだろうか。バンクーバー五輪が開幕し、ネットの世界でもこの話で盛り上がっている。「戦争や特攻隊をイメージさせる」「ジャンプは飛行じゃないぞ」など、さまざまな意見が飛び交っている。「号砲」も短く言える都合のよい言葉だが、「スタート」でいい。

 「メダルかじり」だが、栄光のメダルをかじることには抵抗があった。かじる理由には諸説あるという。「動物的本能。本能的に勝利の味を五感で味わいたいから」「勝利の味や幸せをかみしめるため」「自分の物にしたから」など、見方もさまざまだが、ここで言いたいのはカメラマンの注文に応えているというケースが多いこと。作り手側の意識が変わっていないともいえる。

 先日の編集会議で「日の丸飛行隊」への思いを披露した。慣用的表現について、必要なものは議論していこうと思っている。「古いからこそいい」「言われるほど古くない」「定着しているのだから、そのままでもいい」…。さて、読者の皆さんはどうお考えだろうか。(編集長 工藤均)

濃霧でも離発着可能へ、羽田の誘導装置精度アップ(読売新聞)
<夕張市>カジノ、産廃処分場…迷惑施設で起死回生?(毎日新聞)
「憎まれるのはオレ1人でいい」 民主の渡部氏が小沢氏批判を抑制(産経新聞)
<訃報>長田庄一さん87歳=元東京相和銀行会長(毎日新聞)
【ときどき カム・アラウンド】運動部長・正木利和 国境なき五輪が残したもの(産経新聞)

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。